なに、弱気になってんの。




好きな人がいるなら、「振り向かせる」のだ。
今は脈がなかったり、なんとも思われてないかもしれないけど、
そんなの全然へこむことじゃない。
これから振り向かせるんだ。なんとしてでも。


どん詰まりのプロジェクトは、今、ここから大逆転が始まるのだ。
誰が悪いとか、世の中がよくないとか、そんなのハンデみたいなもんで、
圧倒的に不利なこの状況を、力ずくでねじ伏せるのだ。
この自分の力で。


道がなければ切り開けばいいのだ。
キミは、誰かが用意してくれた道を歩きたいのかい?
前例がなければ、自分が初めての例を作ればいいし、
今までうまくいった話を聞かないなら、自分がついに「人類初」をやるチャンスが巡ってきたってことなのだ。


そんなもんじゃないっしょ。
自分の力って。
こんな程度じゃないでしょ。


なに、弱気になってんだよ。
ここからじゃないですか。

SEXはスポーツか




友達で人妻の「姉御」は、なかなか波瀾万丈な人生を送っているんですが、
ときどき「SEXはスポーツだ」と言います。


それは、
「汗もかけて、気持ちよくなれる。最高っしょ?」というスポーツの爽快感に例えたってのもあるし、
「スポーツをするように気軽なものだ」という意味もあったりします。


今でこそ愛する旦那さんがいて、もちろん浮気やら不倫やらはしていないんですが、
過去の恋愛話(もとい下ネタ)をおもしろおかしく語ってくれるので、
一緒にいると、「道徳に反しないレベルで、ちょっといい人だと思ったら寝てみるのもいいんじゃない?」という、
彼女の考え方をなんとなく知ることとなるのです。


いわく、「性格の相性がよくたって、SEXの相性が悪いと長続きしない。だからこそ早く確認しといた方が良い」
いわく、「体の相性がよければケンカしたってすぐ仲直りできる」
いわく、「女は子宮で判断する」
とまあ、言い出すとキリがないんですが、そんな話をしてくれます。
これが彼女の価値観。

ある男友達の話

一方で、ある男友達の話。
彼はイケメン、ってわけではないけれど清潔感のある見た目で、性格は良く、話題も豊富。
まぁ、たぶんモテるだろうなーという人で。


みんなで飲んでるときに、なんかの拍子に、
「いいなーと思った女の子がいたら、速攻でアタックしてホテルに誘うか」という話題になったのです。
オレはと言えば、「自分、不器用ですから」と遠い目をしながら言って、
どっかん、どっかん、大爆笑をとってたんですけどね。


そのとき彼は「自分はしないと思う」と言ってました。
理由を聞くと、以前そんなシチュエーションがあって、しかも向こうから誘われ、
正直、好意はなかったんだけど、欲望の方が上回ってホテルに行ったことがあったと。


ところが、いざ始めてみると、
している最中に全然気分が乗らない自分がいて。
ものすごく「事務作業」をしている自分がいることに気づいて、
もちろん気持ちよくなくて、相手に申し訳ない気分になったそうな。
翌日1人になってからすごく後悔したらしい。


てことがあって、それ以来、
「本当に好きだと思った人じゃなければ、そういうことはしない」と思うようになったんだって。
それが彼の価値観。

性に対する思いは驚く以上に人それぞれ

ネットの発展もあって、たぶん10年、20年前に比べると割と性に対する話はオープンになっていると思うんです。
でも、知識はオープンになっても経験は人それぞれがするもので。
でもって、性についての思いというか、とらえ方も人それぞれなんだよなぁ、と。


SEXはスポーツだという人もいれば、愛情表現だと言う人もいる。
単に快楽を求める人もいるし、征服欲や支配欲を求める人もいる。逆に束縛欲を求める人もいる。
積年の恨みの象徴な人もいれば、コミュニケーションの1つだと思っている人もいる。
長年憧れ続けた夢の存在だという人もいるし、できればやらずにいたいという人もいる。
とても清く純粋で高尚なものだと思う人もいれば、ただの子作り作業だという人もいる。


つまり、性に対して、
「気持ちいい」「気持ちくない」という動物の本能的な面はあるのだけど、
人間の場合、さらにそこには「思い」が詰まっている場合があったりすると思うんですよ。
その人の生い立ちやら、授かった体のつくりとかの影響でさ。

思いは無視できない

なんでこんなこと書いたかって、このエントリーを読んだからなのですよ。

自分もid:takerunbaと同じ考えで。
過去があって今があると思うし、たぶん、知らないフリをするだろうな、と。


でも、いざ、そういう場面に身を置かれたら、そういう風には思えないかもしれないなーと思った。
「気にしない人でいたい」と思い込みたいけど、
やっぱりそういうのって、その場面になってみないと、自分の気持ちも含めてわからないからねぇ。


元記事の相談主は「離婚して別の人と結婚する」とか、わけのわからないことを言っているけど、
とりあえず話を「昔、多数の関係を持った人と結婚したことについて」に絞ったときに、
そこがどうしてもひっかかるなら、別れることも選択肢なんだろなと思った。


そりゃあ、いろんな人と付き合ったり、深く向き合っていく中で、
「こういう見方もあるんだ」と自分の価値観を書き換えていければいいし、それが理想なのかもしれないけど、
性の部分とか、人間のコアな部分って、
そんなキレイに割り切れなかったりするものだって思ってるんですよ。


やっぱり、思えないものは思えないよ。
それは、しょうがない。
しょうがないです。

なんか気になった。

ネット見てて、たまたま見つけて、
しばらくぼんやり眺めてた。





自分は、マザー・テレサの功績を表面的なものだけで、あまり深くは知らなくて、
なんか誰からも尊敬されている人なイメージがあって。
だけど、本人もこういうことを真剣に悩んだ日々があったんだろうなぁ、と。
誰に対してでも愛情を向けたいと思ってた人なら、なおのこと。


「あなたの中の最良のもの」というフレーズが好き。

「自分のことが好き」というのがよくわからない




こう、友達と話してて「オレ、自分のこと大好きだから」とか「私、自分のこと嫌いなんだよねぇ」とか聞いててさ、
好きだという人には「それはいいなー」と言い、
嫌いだという人には「それは寂しいなー」と言ってたんだけど、
はたと、「あれ? オレ、自分のことが好きって感覚、よくわからないぞ」と思ったのです。
同様に自分のことが嫌い、というのもわからないんですが。すんません、ほんと。


なんつーか、「自分の人生には幸運な出来事がよく降りかかってくるから好き」ってならわかるんですよ。
でもそれって、「自分の運命」のことが気に入ってるだけで、「自分のこと」ではないような気がするんだけど、
言葉のあやみたいなもんで、同じこと言ってんのかなぁ。


もし、そういうのだとしても、どうなんすかねぇ。
自分のことを振り返ってみても、まあ、一人前に生活はできているし、
うまくいったこともあれば、いかなかったこともあるけれど、それなりに望みが叶ってきた部分もあるし、
不満がないわけではないけれど、一通り満足しているから、
自分のことが好きと言えば好きになるんだと思う。


一方で、自分が必要不可欠な存在だとは思わないし、マイノリティ気分は抜けないし、
基本的に自分の役割を果たしたら、すっといなくなりたいって思ってるし。
そういう見方をすれば、自分のことが嫌いなのかなぁーって思う。
結局よくわからないんだけどさ。

でも、自分のこと嫌いなのは、きっとしんどいんだろうなって思う

自分の話はさておき。
自分のことが好きだっていう人は放っておいて大丈夫なんだけど、問題は自分のことが嫌いという人で。
以前、60歳ぐらいの人にアンケートをとったら「自分のことが好き」って言った人は、
全体の20だか30%ぐらいしかいなかったって話を聞いて、
なんとも切ない話だなーとか思ったりしたんですよ。


なんかさー、
そういう人に「自分のこと好きにならなくちゃ!」とか、
「あなたにはこんな良い部分があるよ!」って言うのは、なんか違うよなぁ。
もちろん、それを言って効果的な場面もあるんだけれど、
そうじゃないときに、どうしてあげればいいんだろうってよく考える。


結局、「オレは自分のこういうところが嫌でさあー」とか「もう、わたし、ホントに自分が嫌だ」っていうのを、
「うんうん、そっかそっか。そうかー。それはしんどいなぁ」って聞くしかできないんだよねぇ。
なんか変な決めゼリフ言っても、その人のためにはならないし、
「こうした方がいいんじゃない?」ってのも、その人の抱えているものを理解できなきゃ、単なる自己満足だし。


たださ、自分が何か大きく変えられるとは思ってないけれど、
「話を聞いてもらってスッキリする」という応急処置だけじゃなくて、
好き方向にベクトルを向けられる何かがないかなーって、そんなことを思うのですよ。いい方法はないのかなーと。
話聞いてるといっつも。




ここまで考え考え書いてたんだけど、ふと気づいたのは、
「自分のことを好き」という人と「嫌い」という人って、根本的に渡された体が違う感じがするなー。
「まとっている肌にある痛点の数」が違う感じ。もちろん嫌いという人の方がべらぼうに多くて。


街中歩くだけで血まみれになる人に、「そんなの気にしすぎだよー」って言うのはやっぱり酷だわなぁ。
「あちゃー、これは痛いよなー」って言って、包帯巻いてあげるしかないんだと思う。
でもって、そんなオレもまた血を流しているんだけど、「痛いってなんぞ?」とか言うんだろな。わかんねえもん。
だけどそれで、包帯巻きながら「お互い大変っすね」って笑って言い合えるなら、
自分のことが好きとか嫌いとかわからないけど、まぁ、きっとそれでもいっかってなるんだろうなー。

ますます顔丸くなるよ?


「また、そんなの食べて…。太るよ?」
「この前、ちょっとやせたから大丈夫だもんー」
「ますます顔丸くなるよ?」
「顔のことは言うなー!」
「ま」
「こらー!」
的な。


絵を描こうと思ったけど、いい題材が思いつかなかったのでTwitterで聞いてみたところ、

  • 季節柄、冬服でもどう?
  • 焼き芋をふうふうしながら食べるおにゃのこ
  • 紅葉で真っ赤に染まった公園を歩く二人

というリクエストを3名の方からいただいたので、
「季節柄冬服を着ながら焼き芋をふうふうして食べつつおにゃのこが紅葉で真っ赤に染まった公園を歩く二人」を描いてみました。


そろそろ紅葉狩りのシーズンですね。

今の小学校では調べ物学習をさせられない




ちょっと前に小学校時代の同窓会がありまして。
小学校5、6年のときの恩師と再会し、「今の小学校ってどうなんですか?」と聞いたのです。
ところが、聞かされた今の6年生の話がショッキングだったというか、残念な気持ちになったというか。
と同時に、自分たちは恵まれてたんだなーと思ったのです。

子ども達の本質が変わった

「表面上は違うかもしれないけど、子どもというのはいつの時代も本質的には同じでは」なんて、
個人的には漠然と思っていたのですよ。
なんだかんだ言って素直だったり、未知のモノに好奇心を示したり、大人に甘えたり、そういう部分は変わらないと。
しかし、自分らが小学生の頃と比べると「本質的に違うと言わざるを得ない」と先生は言います。


一番にあるのが、とにかくとにかくとにかく、疲れている。
口癖は「疲れたー」「めんどくさい」「やりたくない」「まだ教わってない」。
朝のチャイムが鳴って教室に入らない子は昔からいたけど、今は廊下に「へたりこんでいる」。
人気の授業は図工と音楽。理由は「寝れるから」。
学級崩壊とも違ってて、とにかく無気力・無関心な雰囲気が漂っている。


学校の先生は授業を進めるにあたって、単に物事を教えるだけでなく、
授業に集中してもらえるように、やる気を高める工夫も仕事の1つだと思います。
しかし、話を聞いていると、子ども達に最初からセットされている「やる気メーター」が、
信じられないくらい低い数値からスタートしている印象。
その状況で授業をするのは、かなり厳しいなあというのが率直な感想。


「そうなってしまう理由は?」と聞くと、先生は1つじゃなくて、いくつもの原因があるようですね」と言います。
そもそも習い事が多すぎて疲弊してたり、食事の栄養バランスがよくなかったり、
テレビやゲームの影響、興味をひくエンターテイメントが多すぎる、夜遅くまで起きている、
複雑な家庭環境の子、教育に興味のない親が増えているなどなど。


あと、自分の事情を優先させる子が本当に増えたと。
「一致団結」とか「クラス一丸となって」みたいのは、ちょっともう、ないらしい。
確かに、いっつもそれじゃうっとおしいけど、みんなでやるのだって楽しいと思うんだけどなぁ。

だいぶ前から調べ物学習をさせられなくなった

「調べ物学習」というのは、例えば社会の授業なんかで、
「この1時間は自由にあげるので、鎌倉時代について疑問に思うことを図書室や資料室で調べてきて」というものです。
班行動になることが多いんだけど、教科書とかから自分たちが疑問に思うことを見つけ、
(例えば、この時代の人は何を食べていたんだろうとか)自分たちで調べに行き、まとめ、発表したりします。


先生の目が届かないところで活動してもらうので、ある程度「良い子」がクラスにいる必要があるし、
もちろん自主性だったり、協調性だったり、物事に興味を持って取り組む力だったり、
自分たちで問題を決定して解決する力だったりが必要になるのですが、
これがだいぶ前からできなくなってしまったと。
できない理由は「目の届かないところに行かせる危険性」「調べ物学習をさせても成果が見込めない」なんかで、
平たく言ってしまうと、コストとリターンが見合わないから諦めざるをえないというそうで。


「そうですかー、できないんですか…」と自分が言い、
「そうなんですよ。できないんですよ」と先生が言い。
ちょっと残念というか、今の子達がもったいないなというか。


先生はそういった子ども達の自主性に任せる授業が本当にうまかったんですよ。
グループ学習であったり、児童が先生役をやって授業を進めたり、
当時の自分たちは「オレ達、大人顔負けの主体性でやってる!すげぇだろ!」って思うぐらい。
今だからわかるけど、実際は綿密な教師の指導計画の上で踊ってただけなんですけどね。
それでも、おかげでたくさん良い経験ができてたと思う。


その先生の真骨頂が発揮できないのは、やっぱりちょっと寂しいなと。
あれを味わえない今の子達はもったいないよと。
まぁ、そう思っても、単なる先輩の後輩に対する成功体験の押しつけなのかもしれないんですけどね。

低学年、中学年、高学年の積み重ねがあって小学生は完成する

先生の話を聞いてて、1つハッとしたことがあったんですが、
「6年生の時にあれだけ自由な授業ができたのは、
 君たちが低学年、中学年のときに良い先生に恵まれていたから」と言われたのです。


小学校時代を振り返ると「1年生のときの先生は好きだったな、3年生のときはちょっと嫌いだったな」
なんて感じで、「点」として認識している部分があったりすると思います。
でも、それは違うんだと。


「君たちの場合、
 低学年のときのA先生が、自ら悪役に徹して善悪をちゃんと教えたでしょ。
 中学年のときのB先生は、自由に発想する面白さを教えてきたはずです。
 そういう積み重ねがあったから、高学年でさらに挑戦することができたんですよ」
という、教師サイドの「線」というか、計画(策略?)を聞かされて、なんか妙に感心してしまった。


「そういう役割をちゃんと理解している先生が多かったり、
 また、そういう『6年間かけて育てる』ことを意識して教師を配置できる校長がいる学校は、
 いい学校になりますよね」と言ってました。

生涯現役のかっこよさ

とまあ、昔は良かった・今の子はどうしようもない、みたいな論調で書いてしまったんですが、
もちろん同じぐらい、今の子の良いところを先生があげられていたことは付け加えておきます。
長くなってしまったので、ちょっと割愛。


学校事情も全国一律ではないと思います。
地域によって、首都圏でも都心か郊外かによって、それこそ、同じ市内でも学校によって事情は違うので、
だから、「これが今の子達なんだ!」と言いたいわけではないです。
もちろん、先生の指導力が落ちた可能性も十分にありますし。




問題はいつの時代もあることで。
ただ、最後に先生は、
「いやー、それでもやり方を探っていくうちに解決策が見つかったりして。
 子ども達から反応が返ってきたりするんですよ。
 そういうのがあるからねぇ、やっぱり、教師は面白いですよ」
と言うのです。自分たちの頃とは違うアプローチで成果を試みている。
きっと自分が一番影響受けたのは、こういう試行錯誤精神だろうなーと、しみじみ思った。


年齢的には教頭だったり、校長だったりになってもいいはずなのに、
「やっぱり現場が好きですから」と言って最前線に立つ先生は、かっけーなあーと思ったのです。
でもって、この先生のかっこよさが今の子達に伝わってなさそうなのが、
どうにも、もったいないなーと思うわけなのです。