「モジモジ君の日記。みたいな。」への返事です

丁寧な指摘を受けたので、お返事です。

そうっすねぇ…。
ちょっと昔の部分もあるんで、思い出しながら書いてみます。

「すべりこむ自己責任論」について

原因が他人であったとしても、変更できるのは「自分の行動や姿勢」のみです。だから、人は自助努力をします。

はい。その通りだと思います。

ところが、guri_2氏は「自分が原因です」と言い切る。これに根拠はありません。ただ、これによって、自助努力は自己責任を果たすこととしての意味を付与されます。ここがどうにも変。

まず、言い切れる根拠があるかないか、という話になれば「ない」になります。いわゆる「絶対は絶対ない」という言い分なんですが、もちろん100%自分に原因がないこともあると思います。というより、普通、物事の原因を探ってみると、「自分40%、相手40%、世の中のルール15%、お天気5%」といったように、様々な原因が絡み合っていることの方が多いと思います。ですから、「じゃあ言い切れないじゃないか」と言われるとその通りで、「うそついたのか」と言われれば「すいません」ということになります(これを「うそついたのか」と言われてしまうと、非常に辛いのですが)。それをなぜ言い切っているかというと、「あいまいな言い回しは伝わりにくい」という表現上の理由からです。


「自分が原因かもしれません」という言い方の方が、そうでない場合も言い逃れのできる安全策であると思いますし、「必ずしも自分に全ての原因があるわけではない」ということから考えても適切かもしれません。ただ、「原因です」と言い切った方が、読んでいて目にとまりやすいですし、「言われてみれば自分にも原因はあるな」「自分が原因?そんなものないわ」と省みるきっかけにもなりやすいかと思います。また、あいまいな表現が続くと「結局どうなんだ?」と混乱をさせてしまい、文章への理解が敬遠されてしまうことも考えられます。そういった理由から、この部分では断定の表現を使っています。(あと、全体の流れを考えた音の響き上、断定した方がリズム感が良いかなというのもありました)


一方、少しわからないのが「自助努力は自己責任を果たすこととしての意味を付与されます」との指摘です。個人的に「原因」と「自己責任を果たす」はちょっとつながらないです。自己責任を果たす、というと何かオオゴトのような気がするのですが、原因はあくまで原因でしかなく、それに気づき、改善する努力をする姿勢が生まれたらいいとは思いますが、だからと言って、その行動(そうした方が良いという考え方も含め)が「自己責任を果たしている」状態だとは思えないです。

しかし、guri_2氏は「強くなれる」と言い切る。これに根拠はありません。ただ、これによって、なんらかの弱さは努力の欠如としての意味を付与されるわけです。これもやはり変だと思いますね。

こちらの言い切りも先ほど述べた表現上の理由からです。一方で「なんらかの弱さは努力の欠如としての意味を付与されるわけです」というのは少し違うような気がしました。「現時点より強くなれる」は「今は弱い、かつ努力をしてない」ではないと思います。もちろん、将来的に強くなってから思い返せば「あの頃の自分は弱かった」となることもありますが、少なくとも現時点では、ニュートラルな状態であり、「強い・弱い」の判断を持ち込むタイミングではないと思います。

斜め上から歪んだ認識枠組みが巧みにすべりこんできます。こういうところが要注意。

「斜め上」「歪んだ」「巧みにすべりこむ」は、なかなか攻めた表現ですねー(褒め言葉的な意味です)。少し気になったのですが、ここでの「要注意」とは、どういった点でしょうか。巧みにすべりこむこと自体は、特に身構えるものでもないと思います。また、「1つの認識枠組みが」というのであればいいのですが、「歪んだ認識枠組みが」となると引っかかります。この「歪んだ」はこれまで述べられた「自助努力に自己責任を果たすこととしての意味が付与されている点」「なんらかの弱さは努力の欠如としての意味が付与されている点」ということになると思うのですが、上記の理由から「歪んでるとは言えないんじゃないかなぁ」というのが自分の意見です。

「排除される批判的認識」について

文句を言っている人は、多くの場合、「文句は言う、でもやるんだよ」のはずです。また、やってない人に対するアドバイスは、「文句は認める、でもやろうよ」なはずです。

こちらは少し自分と認識が違うようです。個人的には「文句を言う」は「文句は言う、でもやらない」のイメージが強いです。逆に「文句は言う、でもやるんだよ」という場面は、ちょっと思いつかないです。何かやる際に文句まで言ってしまうのは、自分に不利になることが多く、多くの場合やらない気がします。例えば自分の昔の経験だと、文句言いながら家の手伝いをしていたときに「やるんだったら、ぐちゃぐちゃ言わない!」と母親に叱られたりしました。こんな感じで、事を進めたい場面で文句を言うのは自ら障害を増やすことが多く、あまりやらないんじゃないかな、と思います。

文句そのものが認められないなら、その内容について話をすることになりますが。しかし、guri_2氏は「そんな暇があったら」、「ビタ一文意味がない」と貶める、それ自体を無駄・無意味と規定するわけです。内容ではなく、「文句を言う」それ自体が無駄・無意味なわけです。

そうですね。決して文句そのものを言うな!と言いたいわけではないので、ちょっと強すぎる表現だったと思います。意見すること、不満を打ち明けること、そのことにも意味があると思いますし、必要なことだと思います。

どうも、彼において「文句をいう」ことは「行動しない」といういことと強固に結びついているようです。

これは、おっしゃるとおりです。厳密に言うと「文句ばかり言う人は行動しないことが多い。一方、行動する人は文句を言う暇がもったいないから文句を言わずに行動してしまう」という感じです。これも根拠ないですね(笑)。ごくごく個人的な経験則です。

むしろ、「文句をいう」からこそ「行動する」、できるようになった、というようなこともあると思うのですが。

そうですね、「文句を言い続け、溜まりに溜まって行動する」といったこともあると思います。

理不尽に立ち向かう勇気は、しばしば、理不尽を理不尽であると認めてもらえることによって奮い立つものです。そういうことがスッポリと抜け落ちているようです。

対象が「理不尽」であれば、そういった勇気の奮い立たせ方もあると思います。自分の話は対象が「理不尽」でないこともあるため、(…ここまで書いて、「あー、自分、理不尽って表現使っちゃったんだ」と思い出しました)そうですね…、結婚のエントリーで「理不尽」という言い方は混乱を招いてしまいましたね。すいません。


結婚のエントリーで言いたかったのは「相手の親に会いにいく=相手の親に認められた結婚をしたいという思いがある、なら、相手の流儀で100点とるしかないっしょ」ということで、「親の承認がなくたって結婚できる」というのも選べる可能性ではありますが、「行った時点で、まずその選択肢は除外だな」と思ってました。ですが、「そもそもそんな深く考えないで会っていたんじゃないか」等々、すでにいろんな議論がされており、蒸し返しでしかなかったという話を昨日聞いたので、「あー、なんか余計なことをしたんだな」と思っています。話題追っかけずにエントリー書くのはよくないですね。気をつけます。

文句と行動についての補足

ちょっとこれまでの結婚のエントリー等を離れて読んで欲しいのですが、自分の中での「文句」と「行動」の関係についての補足です。
先ほど書いたように、自分は別に文句を言ってもいいと思ってます。でも、文句を言うだけで解決することはマレです。というか、まず無いです。やっぱり何らかの行動が必要になります(他人に訴え、他人に解決してもらうといったものも含めて)。結果的に、行動を起こさないと文句の元は解決せず、状況は変わらず、同じように文句を言い続けることになります。「だったら、とっとと片付けて不満の元を取り除いた方がいいよね」「それなら文句を言ってないで行動を起こした方がいいよね」と考えています。なので精神論的なものより、どちらかというと合理的な判断から来る考えだと思っています。


「じゃあ、辛いときにグチを言ったりすることはダメなのか」というと、そんなこともないです。今までさんざん「気持ち悪い」「こそばゆい」「宗教か」と言われながらも「しんどい人が読んで、ほっとできたら」と何本か書いてきたのも、辛いときは辛いでいいと思っているし、行動にたどり着かない文句を言ってもいいと思っているからです(チーカマの話とか個人的に好きなんですけどねぇ。関西弁間違えちゃったけど)。


矛盾しているように思われるかもしれないですが、自分の中では「タイミング」によってきっちり分かれていることだったりします。「タイミング」は、バイオリズムのようなものを想像してもらえるといいかもしれません。相手が上り調子のときは、「文句言うなら行動しろ」だし、不調なときには「グチっちゃいなよ」になります。「1ヶ月…」も「要は…」も「相手のルール…」のエントリーも、全て自分の中で「今はこのタイミングだから」と思いながらスタンスを変えているつもりです。ただ、読んでくれる何百人全員のタイミングまではわからず、人によっては不愉快を招いてしまうことも重々承知してます。これはもう本当に悩んでるところです。あと、スタンスを変えること自体、「一貫性がなくてわかりづらい」と指摘されており、こちらもどうしようか考えているところです。

「毒消し、としてのまとめ」について

彼の場合は、いろいろとしんどい話も踏まえつつもポジティブな姿勢を「選んで」いるようなところはあって、その意味で「単なるポジティブ馬鹿」ではないんでしょうね。

ありがとうございます。そう言ってもらえると助かります。

おそらく、guri_2氏は、悪意があってやっているのではありません。たぶん、自分のアドバイスに辿り着くまでの一本道の間にある、脇道を全部つぶしていったらああなったんだろう、と思います。

これは「いろんな可能性を検討した結果、自分の中で一番だと思ったことを書いた結果が、あれなんだ」ということでよいでしょうか。そうであれば、そうだと思います。

つまり、なんらかの行動を起こすのではなく、そこで立ち止まって考えてしまう可能性、そのような選択肢自体が位置づかないような枠組みをせっせとこしらえていったんだ、と思います。限りなく善意から、おそらくは無意識に。

こちらはちょっとわからなかったのですが、「考え・検討するという行動や、その他の選択肢がないような雰囲気を作り上げている」といった指摘でしょうか。


これは、うーん…。いや、結論から言うとプロセスの説明を省いている分、そういった雰囲気は出てしまうだろうなぁと認識してます。しかし、「なるべくわかりやすく」「読んでもらいやすく」「簡潔に」を考えて文章を書こうとすると、どうしても「結論!」「断定!」の傾向が強くなってしまうのです。これはもう、「むしろ、なんか良い方法ないっすかねぇ?」になってしまうんですが、少なくとも「立ち止まって考えるな!走れ!」なんてばかり思っているわけではないです。

たとえば、「1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば、きっと強くなれる」について、ご本人も「あの通りやって常に思う通りいくかというと、そんなことはない」って、認めてるんですね。だったら、「きっと強くなれる」の文言について、考え直すべきなんじゃないかと思います。

なるほどー。直した方がいいですかねぇ…。個人的に「過去のエントリーは誤字脱字以外いじらない」と決めているので、やるにしても訂正エントリーを新たにあげる感じになると思います。


でもですね、「1ヶ月間がんばって強くなれた人」もいらっしゃるわけです。実際。「あの文章に奮い立たされてスタートして、ホントに良かったです」なんてメールを頂いたりもするんですが、「やー、そんなのご本人の努力であって、自分の文は何でもないっすよー」と思いながらも「書いてよかったなぁ」と思うんです。その人にしてみれば「1ヶ月間がんばったら強くなれる」のは真なんです(厳密に言うと「ここ数ヶ月のその人にとっては」)。真の人がいるなら、そのままでいいかな、というのが今の率直な気持ちです。

同じことですが、Attribute=51の記事の中に注意すべきものをまるで感じないというファンの方は、少し注意した方がいいと思います。

そう思います(笑)
何事も八分で。「いいな」と思ったところを食べて、「どうかな?」と思ったところは切り捨てて欲しいし、それでいいと思ってます。特に「1ヶ月…」なんて、あれだけ箇条書きで書いてあるので、「この中で1つ、今の自分に合うものはどれだろ」ぐらいで読んでもらえると嬉しいです。


こんなんでお返事になったでしょうか?