わかってほしい、わかってほしい、わかってほしい。

とりとめもなく書くよ。絵はないよ。


最近は理系女子の話題で盛り上がっているね。
彼女を「わかる」「こんな子がいいな」と共感する人がいる一方、
「文系だって同じだ」「『理系女子』でくくるな」なんて言うなっていう意見があるよ。
「自分の意見を正当化するために、『世の中の多くはこういうものだ』なんて独りよがりな一般論出すなよ」と。


まず1つ。
一般化を使わずに文章なんて書けないよと思った。
ちゃんと伝わって欲しいからしっかり文章を書くのだけど、事細かに説明すると長くなってしまうし、肝心の部分が伝わらないし、
さらに言うならわかって欲しいのは事実ではなくニュアンスというか空気感だったりするので、
ついつい「理系って」「男って」「非モテって」という世間的なイメージに頼った一般化単語を使う。
それが悪いように言われるけれど、それを使わずに文章を書くのは難しいことだと思った。
共感している人、反論している人、なんだかんだでどっちも一般化単語を使っていた。
そう思うと、「私の周りにはそんな人いません」という言い方はなんと無力なことだろう。


まず1つ。
「これが理系女子全部だとは思われたくない」みたいな意見があったけど、
思わないだろ、と思った。
前も書いたけど、非モテにだっていろんなタイプがいるだろうし(全員が童貞キモオタじゃない)、
スイーツ(笑)だって、やっぱりさまざまな人がいるだろうし、
もちろん「男」にも「女」にもいろんな人がいる。
平たく言えば、一人一人違う。
これは当たり前のことだ、と思うんですが、違うのでしょうか。
いろんな人が「理系は」「文系だって」と振りかざしたところで、その意見がその集団を代表しているなんて思わないし、
語り手が相手に伝わりやすいように一般化単語を使っているだけだと思ってたんだけど、
それこそ「世間的には」そう受け取られないんでしょうか。
それこそ「一般的な共通認識」だと思っていたんですが、そうでもないんでしょうか。




ブログを書く人、
コメントをする人、
トラックバック送ってエントリーを書く人、
そして発端となった理系の彼女。


結局みんな「自分のことをわかってほしい」という気持ちでいっぱいな気がした。
あまりにいろんな意見を読んだので、ちょっと酔った。酔ったってのはほろ酔いじゃなくて車酔いの方の酔い。
もともとブログというのは「わかってほしい」「認めて欲しい」という気持ちで書くんだと思っている。
中には啓蒙活動的にやっている人もいるのかな。オレはそこまで高尚じゃないからわからんけど。
個人的にも絵描いたり、偉そうなことを言ったりしているけど、
やっぱりどこかで「わかってほしい」「認めて欲しい」という気持ちはあるよ。


うまくまとまらないんだけど、
1つは、「わかってほしい」という気持ちを(ある意味勝手に)感じて、なんだか切なくなってしまったということ。
もう1つは、相手の意見を叩くなり、反論するなりに、やっぱり「私の意見も聞いて欲しい」というのを感じて切なくなってしまったということ。
ネットはそういうふうになりやすい場所だと思っているから、今さらな感覚なんだけど、
なんだろなぁ。
「わかってほしい」という人に「わかるよ」と言ってあげるだけではダメなんだろうか。
「あいつの意見はずるい。真実はこうなのに」と声を荒げる人に「そっかー、うん、ホント、そうだねぇ」と言うのではダメなんだろうか。
所詮ネットじゃないか。見ず知らずの人に、そんなに本性むき出しにしなくてもいいんじゃないだろうか。


きっとオレが勝手にいろんなことを感じて、もしかしたら曲解して、
そしてどうにもしっくりこない感覚を味わっているだけなのかもしれない。
みんなゲーム感覚でやりとりしているだけで、オレ1人が真顔で、「なにお前マジになってんの?」みたいな古傷が痛むような雰囲気なのかもしれない。
けど、なんだろう、これは。




ここまで書いてて自分の気持ちに気がついた。


この一連のやり取りの中で、幸福感というか充足感を味わった人はいるんだろうか。
オーディエンスはのける。なんらかの形でかかわった人たちの中にいるんだろうか。
きっとそういう人たちがいないように思えてしまうから後味が悪くて、
「わかってほしい」という気持ちを久々に見せつけられたような気がするから、
そういうことを思う人が多い現代に切なさを感じてるんだと思う。

追記

みんな同じコトについて語り合っているのに、それが「同じコト」ではないように感じたからかな、とも思った。
発端の彼女は自分にとっての「理系」をイメージしながらブログを書いた。
「そんな子が好きだ」とコメントした男は、彼の中にある「理系女子」をイメージしてコメントした。
「理系はこんな人ばかりじゃない」と述べたブログは、やっぱり書き主の中の「理系」がイメージされていた。


みんな同じ「理系」について語っているのに、
どれ1つとして同じ「理系」はない。
お互いが相手に伝わりやすいよう、一般化したり、自分の生い立ちを軽く交えたりして努力するんだけど、
それもまた別のイメージを呼んでしまう。
なんだかそれぞれが違う方向を向きながら、近くに人はいるのに、誰も聞いてくれてない状態で、
「理系ってのはね」と叫び合っているような気がしたよ。


今回は特に感じたんだけど、でもこれはネット上のやりとり、文章だけのやりとりなら仕方ないことなんだよな。
実際に会って話すのとでは情報量が全然違う。
変な話だけど、彼女と会って、顔を見て、しゃべり方を聞いて、「こんな人なんだ」と実感するだけで、
意見がひっくり返る人はたくさんいるんじゃないだろうか。


だからなんちゅーか、議論がかみ合っているようで、
実はお互いがお互いのイメージに対して勝手に感想を述べている姿を想像してしまい、いたたまれなかった。
そして、それがブログの限界なのかも、と思うと、
ネットコミュニケーションの可能性を信じたい自分にとっては、苦しい事実だなと思ったんだと思う。