だけど、あなたは優しいじゃないか。

とある友達の話。
まー、どうってことない話なんですけどね。


その友達はときどき、「誰にでも、自分のことを肯定し続けてくれる人がいたらいいんだろうにね」と言うのです。
そしたら、みんな、少しは違ってくる部分があるかもしれないよな、と。
そういう存在って、友達だったり、家族だったり、恋人だったりするんだと思うけど。


友達は昔からそういうことを考えていたわけではなくて、
なんでそんなことを思うようになったかというと、
「自分のことを肯定し続けてくれる人」がいた時期があったからだという。


その人は、
友達が何かに失敗しても、その努力を肯定し、
人とぶつかっても、良い状況に持っていこうとしていたことを肯定し、
挑戦を始めたときは、その初めの一歩を肯定し、
逆に自分の意見が他の人に受け入れられすぎて、「ホントにこれでいいんだろうか」と不安になっているときでも、
「みんなが納得する、いいことをしていると思う」と、丁寧に肯定するんだという。


「どう、ひいき目に見ても自分が間違っているときもあったと思うんだよなぁ」
と苦笑いして友達は言う。
それでも、その人がいてくれたおかげで、たくさんのことに自信が持てたし、
猛烈に味方されるせいで、かえって、冷静に自分の間違いを受け止められたという。




物事に100%の正解なんてない。
ある方向から見れば、100点満点の「正解」は存在するかもしれない。
けれど、行いや出来事をぐるっと360度、いろんな角度から見たときに、
「こっちから見ると良かったように感じるけど、こっちから見ると悪い判断だったように思う」みたいな、
複雑なパターンばっかりなんじゃないかと思う。


「多くの人には喜ばれたけど、一部の人からは反感を買った」とか、
「たくさんの人には恨まれたけど、ある1人はものすごく救われた」とか、
「今は良くなったけど、1か月後に大きな問題を呼んだ」とか、
「人前で恥をかいてしまって、ものすごく後悔したけど、そのおかげでうち解けられた」とか、
物事は切り口一つでどうにでもなってしまう。
結局、どんな状況、どんな将来、どんな人にも最善な100%の正解、というのはない。




「でも、それって裏を返せば、どんな状況でも必ず『良い部分』はあるってことじゃん?
 今なら、その人はそれを見つけて、ずっと肯定してくれてたってことがわかるんだよ。
 『そうかもしれないけど、でも、この部分は良かった』と、
 よく言われた気がする」


間違いは直すし、悪いところは改める。
だけど、追い込まれて精神的に辛いときよりも、
まず「自分は大丈夫なんだ」という拠り所があった方が、きっと素直に反省できるようになるんじゃないだろうか。




友達はあるとき、その人から「だけど、あなたは優しいじゃないか」と言われたという。
何もやってもうまくいかなくて、無力感ばかりがつきまとい、自分は何もできないダメな人間だと落ち込んでたときだった。
そのときその人は、友達が普段気をつけていることや、他の人にしたことを、
「あのときはああしてた、このときはこんなことしてた」と、ひとつひとつ、いくつもあげて、
「できないこともあるけれど、あなたは十分ちゃんとやってると思う。少なくとも周りの人には優しくしている」とムキになって言ってきたという。


「そのときは、さすがにどうかと思ったけどなぁ。
 理論は破綻しているし、周りの人に優しくするのは当たり前だし、
 だいたい、『あなたは優しい』って言われても、そもそも優しくない人なんていないじゃん?」と友達は言う。


そして、ちょっと考えてから、
「まあ、よく見てるなぁーとは思ったけど」と、懐かしそうに笑ってた。




その人は、すでに友達の側を離れ、遠いところに行ってしまったという。
いなくなったとき、友達はすごく寂しがったけど、
それでも、「肯定され続けた」という経験は、すごいいい体験として友達の中に残ってる。
その思い出があるだけで、この先何があってもやっていけるんじゃないかって気になるらしい。


もらったものは返さないと、ということで、
友達は、今度は自分が周りの人を肯定し続ける人になろうとしている。
「やってみてわかったよ。これは、難しいなんてもんじゃないわ」と、よくぼやいている。




5月の終わりに、そんな友達の話。